記事・出版物 Articles & Publications リストへ戻る
088「君は鉄を見たことがあるのか ! 」(2021年03月号)
By 高久 英輔 (Eisuke Takahisa), Synergy Semiochemicals Corporation
身近に思えて、多くの人は本物の鉄を見たことがないはず。そう思われているものは、鉄ではなく、鉄と炭素の合金 ( 鋼 = はがね ) だから。鋼の炭素量はわずかに 2% 位だが、これを少し増減すると、振る舞いが大きく異なってくる。
さらに、製作時の経験を詳細に「記憶」するという意味でも面白い。ケベック州のモットー、Je me souviens である。「焼きを入れる」 「焼きなます」というが、冷熱の入れ方、また叩きや圧延でも様々違ってくる。これは結晶構造が変化するからで、例えるなら、チョコレートである。ある男性タレントがバレンタインチョコについて、「プロが作ったおいしいチョコを、素人が融かし固めた劣化品」と評したが、確かにチョコにも結晶構造があり、大理石の卓で精密に温度制御しながら、それを作 り込むのが正統とされている。素人がイジると不味くなるのは、ここが巧くできないから。チョコなら喜劇で済むが、大躍進運動では、チョコのノリで鋼製品を融かし潰してクズ鉄にしてしまった。こちらは悲劇である。
不動産あれこれ歴史を紐解くと、建設材料としての鋼鉄の歴史は浅く、エッフェル塔 (1889 年竣工 ) ですら一世代前の錬鉄という製法の異なる素材で造られている。伝統的には、銑鉄や 鋳鉄と言った炭素量の多く、硬くて脆い、鉄合金も盛んに利用された。
私もあるとき、そんな過去を追体験した。鋳鉄製の古い戸棚の取っ手が「割れた」のだ。瀬戸物のような不思議な音で、「鉄っぽく」はなかった。初期の鉄道レールも鋳鉄製だったそうだが、さぞかし苦労の多かったことであろう。
この点、鋼の強靭さは素晴らしい。ハガネというのも、元はサムライ専用スペシャリティ・マテリアルだったから ( 百姓用は低品質品 ) で、近代製鉄を学ぶ前の、日本文化における鋼の貴重さを反映している。先に「鉄っぽくない」と言ったが、庶民がそういう体感覚を共有できるのも、鋼が量産される巨大産業文明の只中にいるからであり、古人の常識は異なってい たはずだ ( 未来人のそれがどうなるかは我々次第……)。
実際、鉄鋼には強さの印象がある。スターリンは鋼の人という意味の変名だし、鉄血宰相やら鉄の女という言い回しもある。ただ、チョコの件を忘れてはいけない。つまり高温に晒されると「記憶」が飛んでしまうのである。しかも熱の伝わりが速い。そう、意外に思う人も いるかもしれないが、力が掛かっている状態では、鋼は火に弱いから、断熱材で労わってあげたりするのだ。9.11 で WTC が崩壊したときの勢いにはびっくりしたが、あれも鋼の性質が巨視化されたものと言えよう。普遍の合金の諸表情に興味は尽きないのである。